2019年正月、西武・そごうの広告が議論を呼んでいます。
西武・そごう「わたしは、私。」
最もポリティカルコレクトネスの観点からロジカルに説得力のある問題提起は、概ね以下のような論調ではないかと思います。
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女性であるだけで不当な扱いを受けるような社会に異を唱えるといったクリエイティブかと思いきや、「わたしは、私」という個人の心持ちに帰するようなクリエイティブである。なぜ個人で対処しなければならないのか。個人では対処のしようのないところで不当な扱いを受けるケースが一番問題なはずなのに。
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ただ、これほどロジックを立てていなくても、
「正月から暴力的な写真を見せられて不快」
というような拒否反応も、決して少なくない数の投稿としてTwitter上などに見受けられました。
おそらくこの広告を作成したクリエイターや、OKを出した責任者の方は、女性が不当な扱いを受けることを肯定するつもりもないでしょうし、むしろ、逆風の中にある女性を応援したいという気持ちでこの広告を世に出したと想像するのですが、それが受け手に誤解なく伝わるようなクリエイティブになっていなかったということでしょう。
広告は、映画や文学作品ではないので、受け手がコンテクストを深く理解しようとしてわざわざ時間を割くような対象ではありません。
このため、パッと見で誤解なく伝わるクリエイティブでないと、このようなすれ違いを生んでしまうケースは多々あります。
今回のケースも、ボディコピーまで読み込むと、あるいは他の解釈の仕方もるかもしれないと気づくかもしれませんが、ボディコピーをさらっとしか読まずに、写真とキャッチコピーの印象先行で解釈すれば、
「女性に対する風当たりがいろいろあるけど、私は私なんだから気にせず前を向いて歩く」
という理解の仕方になってしまって、「女性に対する風当たり」を容認して「気にせず前を向いて歩く」という個人の気の持ちように帰結させているという前述のような批判につながってしまっても止むを得ないでしょう。
このような、ボディーコピーにいろいろなメッセージを詰め込んでみたものの、受け手は結局キャッチコピーに引きづられるという現象は、NewsPicksの「さよなら、おっさん。」についても見られました。
「ニュースピックスの『さよなら、おっさん。』はなぜ炎上したか」を分析する人々 - Togetter
もちろん、今回の「わたしは、私」も、NewsPicksの「さよなら、おっさん。」も、作り手と受け手のすれ違いに責の全てを帰することができるわけではありません。他にも様々な指摘が挙げられていたことも当然無視できません。
が、「作り手と受け手のすれ違い」は重要な注意点の1つであることに違いはないでしょう。
広告制作者は、このような現象を念頭に置いて制作をする必要があります。
参考記事:
「西武・そごう「わたしは、私。」広告に寄せられた賛否両論から読み解く「女性活躍」の複雑さ」(治部れんげ) - 個人 - Yahoo!ニュース
「西武そごうの広告が本当に伝えたかった事を考察したら、とてもふんわりした。」雑感ビビッ
2019年1月30日更新:
1月29日の時点で、池袋駅構内ではこのような形で掲示されていました。